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SE Can't Code

A Tokyo based Software Engineer. Not System Engineer :(

読書について。

 

 

本を全く読まない友人と今日話をしたとき自分の考えを上手く言えなかったので、とりあえずここに文字として綴って頭を整理します。所謂メモです。そしてバックアップ。そして、闘いにいきます。

 

 

 

自分は凡人なので人の頭を借りる。

 

ちょい昔、シュウペンハウエルの「読書について」って本を読んで衝撃を受けたことがある。というのも、活字中毒、いや活字狂の自分としては耳の痛い言葉ばかりだったから。

 

シュウペンハウエル・・・名前、長い。シュウペンハウエル。

 

 

 

 

でもでも考えてみると、パウエル(※ここだけで言うシュウペンハウエルのこと)の批判する、安易な多読自体の中に、パウエルの著作が組み込まれたとしたら、こんな背理はないわけで。安易かはさておき、少なくともこの活字溢れる時代の、いち著作に成り下がっているのは確かなこと。

 

 

 

その本の中にこういう言葉がある。

 

「読書とは他人にものを考えてもらうことである」

 

 

このあとに痛烈な批判文句が続くのだけど、そこの是非は置いて 、この言葉自体は確かに真実だと思う。よくよく考えると、自分みたいな凡人にとって自分の頭で考えて、自分の言葉で目新しいことを言うのはデラ難しいわけで、せいぜい日常から少し背伸びしたくらいの、つまりは今くらいの語りで、頭の中にある残り滓みたいなものを口にするしかない。凡人なんだし、頭悪い方だし、それで十分だと思う。他の偉大なる先人たちがどう考えるだろうか・・と、その発想を、頭を使って考えるのは、凡人にとって、この上なく有意義なことだと思う。 というよりは、天才や秀才に対抗する唯一の手段かも。それ以外にあるとしたら・・・博打打つしかない。偶然や運に任せるっていう。 

 

 

 

これもまたよくよく考えると、パウエルの言った通り、一応パウエルの本の言葉を超えて、とりあえず自分の頭で、こうして考えているのだから、パウエルの言うようなあるべき読者の姿を踏襲しているのかもしれない。

 

 

 

 

というか、そうだろ、

 

パウエル批判したつもりでも、パウエルの手の上にいるわけだ!パウエル!パウエル!(※決してパウエルではない)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、だ。ここからがまとめだ。

 

人目にも自分目にも洗練されているっぽい思考って少なからず「本」に影響されている。自分の頭ぽっきりで思考してたら、所謂”むっちゃ稚拙な人”になるんじゃないか。けどその所謂・・・の基準自体、先人ありきだと思う。例えば50年って単位でも数え切れない数の人が生まれて、それだけの思いや信念、思想があるんだから、時代を下るほど、掘り尽くされた「感」は強くなるだろうし。  自分で考えても被るだろうし、自分で考えたつもりでも、覚えのないところで影響をうけていると思う。

 

そういうものまでなくして、自分を無菌培養しても、わけのわからない破片が出てくるだけじゃないだろうか。

これは音楽とかでも同じだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長々と 駄文になってしまったけれど、なんとなくまとまった気もする。スカポンチンが頭を絞って絞って出した言葉は、さて、友人にどう届くのだろうか。

 

闘いは近い。

 

 

 

 

 

どうもありがとうございました。 

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