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SE Can't Code

A Tokyo based Software Engineer. Not System Engineer :(

ピースなんてもんはクソだ。

 

 

 

写真を始めて、幾分か年が過ぎましたが、一つの副作用が起きていました。

 

それは、「写真に写る時、ピースができない」というものでした。

そもそも、写真を撮り始めてから、写真に写ることを極端に嫌うようになりました。理由は不明です。写る側の立場なんて知っちゃこっちゃありません。あ、そうそう、あんなパシャっと音が鳴る箱にね、撮られた時には魂も一緒に引き抜かれてそうでね。だから嫌なんですよ。あんな箱に撮られるのは。

 

そう思うと同時に撮る側の立場にしか立つことが出来なくなっていたのですが、人なんて撮るときにはピースなんてして欲しくないわけなんですよ。"自然"な貴方を撮りたいんですよ。ふとした横顔。満面な笑顔。眠った顔。この世を憂う顔。ファッキンな顔。いろんな顔が人にはありますが、どれもこれも僕自身が魅力に感じるのは"意識が箱に向いていない瞬間"なわけです。違う世界に被写体の意識は向いていて、そこを切り取る。

 

ピースなんてものは意識が完全にこちらに向いているんですね。それに行動の陳腐化も起こっている。

だから僕は"ピース"を撮らなくなりました。するとどうでしょう。いざ、自分に箱が向いていて、そこに意識を集中させて周りと同化し、あの"ピース"をしなければいけない場面に出くわしたとしたら。

僕はとうとう出来なくなっていました。

中指だけを突き立てることは出来るのに。

 

マザーファッカーのような写真の写りにしかならなくなっていました。

 

 

 

 

 

 

表現の幅の広さよりも、何より自分が自分ではない感覚が指先を伝ってシャッターを切る。 

125分の1という時間の中で自分は人を殺そうとする。 

同様に人に殺されようとする。 

自ら断つことに意味はない。 

再現なく繰り返すことのできる殺し合いのような被写体との勝負に生は生まれる。 

 

そして終われば、もうそこに何もない。 

自分は自分に戻り、ただ計算をする。 

 

そしてひと呼吸をするのだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真ってやつは、言わば、被写体との殺し合いみたいなもんですよ。

そこに"ピース"なんてもんは、ないのですよ。

 

やはり僕が写真に向ける意識は、いつでも「過程」なんですよね。

 

 

写真そのものに意識を向けることができたら、僕も"ピース"が自然とできるようになる、

そんな気がします。

 

 

 

 

どうもありがとうございました。

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